いま世界中の現場で、小型コンピュータ「Raspberry Pi(通称:ラズパイ)」が静かに、しかし確実に勢力を拡大しているのをご存知でしょうか。
累計販売台数は2025年3月時点で6,800万台を超えており、その約8割は産業活用され、年間500万台以上のペースで今も世界のあらゆる現場に導入され続けています。
小型で安価──にもかかわらず、世界的な開発者コミュニティとオープンソースソフトウェア(OSS)の力を背景に、開発者が自由な発想で開発・制御できる。さらに、サーバー側の大規模言語モデル(LLM)に依存せず、端末側だけで生成AIを活用して価値を生み出す「エッジAI」環境の構築にも最適なのです。
この圧倒的なOSSエコシステムと現場での導入実績は、すでに産業構造を変え始めています。現場の課題解決のスピードと質を劇的に変化させて、製造、物流、小売など多様な産業の構造そのものを変革する可能性を秘めており、いままさに開発投資が進んでいる「フィジカルAI」を支えるデバイスとしても存在感を強めています。
私は、この流れが一過性のブームではなく、“次の時代の王者”になる道筋だと確信しています。生成AI時代におけるエッジデバイスの覇権を握る存在として、ラズパイがなぜこれほど強いのか──そしてその先に何が見えているのか──IdeinのCEO・中村晃一が3回にわたってお話しします。
目次
1. 世界中のソフトウェア開発者を惹きつけるラズパイの魔力2. ラズパイは企業の開発プロセスを一変させた
3. 爆発的普及の前夜からラズパイに注目してきたIdein
世界中のソフトウェア開発者を惹きつけるラズパイの魔力
2012年に英国で登場したラズパイは、元々は子どもの教育用途を想定して開発されました。しかし現在では、新しい製品・サービスのR&DやPoCといった小規模での使用だけでなく、IoTをはじめ広く産業のなかに組み込まれています。
日本国内での著名な事例を挙げると、回転寿司チェーン「くら寿司」の回転レーンはラズパイを中心としたシステムで制御されており、チェーン全体で4万台程度のラズパイが稼働していると推察されます。
また、ファミリーマートが全国数千店舗で展開するデジタルサイネージメディア「FamilyMartVision」は、Ideinが提供するラズパイ搭載AIカメラ「ai cast(読み:アイキャスト)」を活用しています。このAIカメラで来店客の属性データを解析し、レジ上に設置された大型ディスプレイで動画広告やエンタメコンテンツなどを配信することで、新たな購買体験を提供しています。
このように、ラズパイは教育・趣味の域を超え、今や産業・組み込み (I&E) が販売の中心です。英国FCA承認の同社目論見書によれば、2023年に販売されたSBC/Compute Module計740万台のうち72%超がI&E向けでした。また同書では、ラズパイを「Linux系組み込みコンピューティングのデファクトスタンダード」と位置付け、I&EのOEMで1,300社超と言及しています。加えて、開発者調査(※)でも開発ボードの利用でラズパイは26%で最上位グループでした。これらの情報により、ラズパイが産業用途として既に幅広く活用されていることがわかります。ラズパイはまさに現代の産業界における「エッジデバイスの覇者」と言えるのではないでしょうか。
なぜラズパイがここまで産業界に受け入れられたのか。その理由はラズパイが持つ高い処理能力と使い易さによります。
これまで、製品・サービスに組み込まれるコンピュータは「マイコン」と呼ばれる処理能力が低かったり、特定用途に限られるコンピュータでした。しかし、ラズパイは小型ながらARMベースのプロセッサとLinuxベースのOSを備え、様々なソフトウェアを稼働させる事ができる汎用コンピュータです。つまり、様々な製品に、ソフトウェア開発による高い拡張性が担保された小さなパソコンと同等程度の処理能力を実装することが可能なのです。これにより、ソフトウェアを活用して機能の高度化・多様化を図りたいという産業界にとって、ラズパイは最適な組み込みデバイスとなりました。
そして、ラズパイが躍進することになった大きな原動力が、冒頭で述べたようにOSSコミュニティに圧倒的に支持されている点。高度な機能を実現するソフトウェアを自社でゼロから開発するには非常に高い技術力とリソースが要求され、また外部に自社専用のソフトウェア開発を委託すると莫大なコストが掛かります。ソフトウェアの高度化が進む現代において、特定の製品専用のソフトウェアを自社だけで開発するのはあまりにも非効率であり、非現実的です。
しかし、ラズパイは世界中のソフトウェア開発者によるコミュニティが形成されており、グローバルで1000万人を超える開発者たちによってあらゆるノウハウや開発事例が共有されています。ソフトウェア開発者人口は全世界で4700万人と推計されており、ラズパイが開発者にどれだけ支持されているかがわかるでしょう。
このコミュニティに集まる開発者の熱量と様々な最新ソフトウェアの開発ノウハウが、新たにラズパイを活用したい開発者をさらに呼び込み、シェアを拡大していく原動力となっています。このエコシステムが生み出すパワーは企業が単独でソフトウェア開発をする力を大きく凌駕しており、結果的にラズパイが製品に組み込むコンピュータに最適として支持されているのです。
※Embedded.com「Embedded Market Study 2023(ウェビナー資料)」2023年5月公開、p.14
ラズパイは企業の開発プロセスを一変させた
ラズパイの登場は、単に企業が開発する製品・サービスの高度化を加速させただけでなく、その根幹にある開発プロセスそのものに革命的な変化をもたらしました。
従来、多くの企業における製品開発では、ハードウェアとソフトウェアの開発がそれぞれの専門チームによって独立したプロセスで進行することが一般的でした。また、組み込み型コンピュータ(マイコン)は、市場に流通している既製品から選定せざるを得ませんでした。
そのため、開発の最終段階でハードウェアとソフトウェアを連携させる際に予期せぬ不整合や技術的な困難が生じたり、そもそもマイコンの性能や仕様の制約によってソフトウェアで実現できる機能が限定されてしまったりと、開発の柔軟性やスピードを阻害する様々なハードルがありました。
こうした環境下で開発者の支持を集めてきたのがラズパイです。わずか数千円という圧倒的な低価格で高性能なコンピュータを調達できて、ソフトウェア開発はグローバルな開発者コミュニティを味方にOSSを最大限に活用できる──これにより、製品のプロトタイピングの段階から、従来とは比較にならないほどコストと作業工数を抑えつつ、AIやIoTといった高度な機能を組み込んだソフトウェア開発が可能になったのです。この「まず作ってみる」というアプローチを手軽に実現できるようになったことが、製品・サービスの開発プロセスそのものを根底から覆しました。
例えば、これまでであれば数百万円単位の予算と正式な稟議決裁を必要とする外部委託や大規模な開発が、ラズパイの活用により、現場に委ねられた開発予算に収まるコストで実行できます。
こうした変化は、現場の課題を最もよく知る担当者による業務改善や、自由な発想によるプロダクトの試作を可能にし、ボトムアップでイノベーションの種を生み出すことにも寄与しています。これは、単なる開発コストの削減に留まらない、組織文化にまで影響を及ぼす大きな革新と言えるのではないでしょうか。
爆発的普及の前夜からラズパイに注目してきたIdein
私たちIdeinは、ラズパイがここまで注目されるずっと以前から、エッジデバイスとして活用するための研究開発・プロダクト開発を進めてきました。
Ideinが創業した2015年当時、私たちは「ソフトウェアセンシング」というコンセプトを掲げて、ハードウェアからソフトウェアへのシフトをテーマに事業に取り組んでいました。従来センシングは、例えば赤外線センサーや超音波センサー、振動センサーなど様々なハードウェアを活用して行われます。しかし、今後ソフトウェアによる画像解析や音響解析などの技術が発展すれば、専用のハードウェアセンサーに代わって、カメラやマイクに高度な解析ソフトウェアを組み合わせて多様な・新たなセンシングが可能になるのではないか──つまり、センシング分野がソフトウェアによって今後大きく変革するであろうと考えて、会社を立ち上げたわけです。
そして私たちは、テクノロジーを開発するだけでなく、社会実装までをしっかりやり抜くことにこだわって、事業を展開してきました。プロトタイピングやPoCを実施するだけでなく、お客様の手元に届き、実際に活用される製品を作ろう。そうした考えでプロダクトを開発するなかで、自然な流れでラズパイをハードウェアとして選択することになりました。
AI分野のベンチャー企業はAIの研究者が中心になって立ち上がることが多いですが、私たちIdeinはコンピューターサイエンスを専門にする人間を中心に創業しました。それ故に、一般的なAI企業がAIの実行性能を重視しNVIDIAのGPUを活用した技術開発を進めてきた一方で、私たちはAI以外を含めての最適なシステムのあり方を追求し「ラズパイで動くエッジAIソフトウェア」を開発してきました。これは私たちの創業時の思想に照らすと自然な流れだったのです。
2012年に登場し、これまで1000万人を超える世界的な開発者コミュニティを作ってきたラズパイ。これを凌駕する製品やコミュニティを、他社がゼロから生み出すのは至難の業です。1000万人のソフトウェア開発者を抱えたシステム会社を立ち上げるのも不可能ですし、1000万人分のソフトウェア開発者の労力や成果物であるノウハウや開発実績は投資で実現できるものでもありません。
これまで、ラズパイと同じ立ち位置となるエッジデバイス領域には複数の米大手IT企業も挑戦しましたが、ラズパイの存在を脅かす成功は収められませんでした。先行優位性で競合を圧倒するラズパイの勢いは、もはや誰も止められないでしょう。
もちろん、PC向けプロセッサーの主流がこれまでの王者だったインテルからARMへとシフトし始めているように、エッジデバイスのトレンドが今後どのように変化していくかは、誰にもわかりません。しかし、業界を激変させる出来事が起きない限り、ソフトウェアのエコシステムが確立しているラズパイの優位性は当分は揺らがないと考えています。
さて、今回はラズパイが「エッジデバイスとしての最適解」であることを説明してきましたが、そのポテンシャルの高さは、この短い文章では到底語り尽くせません。また、様々な可能性が広がる一方で、産業活用における問題も露呈しています。次回は、ラズパイを活用する企業が直面している課題と、その解決策──ラズパイを統合管理・運用する手法について解説します。
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